いじめの心理

いじめる側の論理、いじめられる側の論理

病的なものは置くとして、「いじめ」は労働社会以外でも見られる現象です。

いじめる側は、必ずしも自分が相手をいじめているという自覚を持ちません。

いじめられている側は、自分が迫害されていると認識していますが、どうしてそうなっているのか客観的に見ることができないでいます。

一人の人間はいろいろな属性をもっていて、違った角度から見ると、まったく正反対の評価をすることができる場合があります。

今、一人の女子学生が周囲からいじめられていたと仮定すると、いじめる側には「いじめる側なりの論理」があって、なぜいじめるのかを問えば、「あの子はプライドが高く、態度が傲慢。だから、いじめられて当然」という正当性(?)を主張することになります。

逆にいじめられている側の本人は、「自分は美人で、実家は裕福、成績もいい。だから、嫉妬されている」と信じています。だから、いじめる側が100%悪だ、という主張になるでしょう。

しかし実際の心理を読み取ると、いじめる側の深層には、相手に対する嫉妬があり、いじめられる側には、自分の日頃の不遜さに気づかないという実態があります。

こうした二重構造があると、いじめは延々と続きます。

双方が二重構造を客観的に自覚できれば、いじめの問題はそう深刻にはなりません。

わざわざこういう例を持ち出したのは、職場における労働問題としての「いじめ」にも、こうした心の二重構造が存在する場合が多いからです。


いじめの新しい顔

「いじめ」という言葉から連想される行為は、職場の死角でネチネチと行われるいびり行為ですが、最近のいじめは「行きすぎた教育・指示・命令」といった外観を取る場合が少なくなりません。

上司が部下に対して何らかの教育的態度をとるのは、職場内では日常的なことです。

これがエスカレートし、行きすぎた指導、叱責・罵倒といった状況に至ったとしても、行為者には「教育的指導」という大義名分があるだけに、事態の深刻化に歯止めがかかりません。

印鑑の押し方、言葉遣いなど、重箱の隅をつつくような注意から始まり、「使えないヤツ」と叱責をうけ、やがて過激な言動となっていく、というのが今日的ないじめの特徴です。


相談を受けるとき

自分の置かれている状況がパワハラだと認められただけで、本人はずいぶん楽になるようです。

被害者は受容しがたい事態に直面して、「自分が悪いのではないか」「自分は少し頭が変になっているのではないか」と自問自答し、混乱している場合が多いためです。

自分は不当な被害を受けているだと認識することによって、少しずつ状況が見えてきて、対処法について冷静に考えられるようになってきます。


仕事に対する意識の変化

かつては、どちらかというと会社の言うとおりに働く社員が求められていました。社員の方も、いったん入社した会社で生涯がんばり続けようというのが当然と考えていました。

しかし、会社が愛社誠心・忠誠心を持った社員を大事にし、生涯面倒を見ていこうとする時代は終わったといっていいでしょう。

会社を生涯のライフステージの一つのステップとしてとらえ、自分のキャリア形成を図っていこうとする従業員が増えていく中で、会社も従業員管理のスタイルを変えている必要に迫られています。

タイプ別マネージメントの必要性

すべての部下を画一的に指導・管理していこうとすると、予想外のリアクションを受けることがあります。

上司の圧力に対する部下の反応と区分けすると、以下のようになります。

上司の圧力に対する部下の反応

※岡田康子氏((株)クオレ・シーキューブ)による。

この区分に従うならば、雇用・労働の分野で問題を抱える人たちは次のように分類できるでしょう。

  1. どう対処しても納得できず、相手をギャフンと言わせなければ、気がすまない人
  2. あれこれ苦情を言うが、だからどうして欲しいというと、返答に窮する人
  3. 会社を批判するが、第三者の調整によって雇用継続で決着が付きそうになると、自分から退職を選ぶ人
  4. どうすればいいかという自分なりの考えを持たず、ひたすら受け身のまま、弱っていく人

相談を受ける側にしてみると、できるだけ早く相手の本当に欲しているところを把握し、効果的な対応方法を探ることが必要です。


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